ドストエーフスキイ「悪霊」を読んで

(2003.3.8)

 大学を卒業して以来、ほとんど文学作品と呼ばれるようなものを 読んでいなかったが、以前たまたま大学生協で岩波書店の書籍の割引 セールをやっており、米川正夫訳の「悪霊」が平積みされていたのを みて、衝動的に購入してしまった。以来、出張のおりなどに少しずつ 読み続け、数日前にようやく読了した。

 なぜこの本を購入しようと思ったかというと、同じ作家の 「カラマーゾフの兄弟」は米川訳で以前に読んで、いまなお私にとって 一番深い読後感を与えてくれた本だからである(もっとも「罪と罰」 は当時もそれほどには面白いとは思わなかった)。以来、「悪霊」は 私の中でいつかは読んでみたい書籍リストにずっと並んでおり、 たとえばオウム真理教事件などの際に識者に引きあいにだされるのを 見たり、ソビエト連邦が崩壊して、革命思想がなんとなく懐古的に 語られるようになってきたのを見るにつけ、若かりし日のような 強烈な読書体験を味わいたいという気持ちが高まっていたのであった。 さらにいえば、大学生のときから 20 年近くが経ち、自分も多少は 成長したであろうから、現在の目で文学書を読んでみると、以前 よりも深い読み方ができるのだろうかという期待もあった。

 しかし、結論からいうと、期待したほどには楽しめなかった。 もちろん後半などはかなり引き込まれたし、これほど細切れの 読み方ではなく、もっと一気に読めば、さらに楽しめただろうと は思う。しかし、巻末で訳者も述べているように、この作品では どうも登場人物の心理などをとても微妙な外面の描写から読み取る ことが要求されているようで、以前より深い読み方どころか、 年をとってかえって自分の感受性が鈍っているのかもしれないと 感じさせられた。

 もっと本質的なことは、年をとって、以前ほど思想というものを 深刻に考えたり感じたりすることができなくなって、たとえば キリーロフの自殺直前の苦悩などがいまひとつ実感できなくなって いたことも大きい。また、世の中にはこの小説に書かれているよりも もっともっとおぞましいような悪がはびこっていることを実感して しまっているということもあるように思う。

 主人公であるニコライ・スタヴローギンについては、私はもっと 良心がマヒしたような絶対悪の人かと思っていた。たぶん以前に読んだ 浦沢直樹の「MONSTER」という漫画の主人公のイメージに影響されて いたのだと思う。しかし、読んでみると、やはりドストエーフスキイの 他の作中人物同様、魂の彷徨を重ね、内面でとてつもなく苦しんでいる 人であり、「カラマーゾフ」の第2部で無垢だったアリョーシャが テロリストになる予定だったという噂を思い出させるところがあった。 その意味でも、発表当時は未公開となった「スタヴローギンの 告白」の章は、その内容のまがまがしい衝撃性を別にしても、彼の内面に 迫るために非常に重要であり、この章なしの「悪霊」はほとんど 私には考えられない。それにしても、彼が結局のところ、話の 本筋ともいうべきピョートルらの革命運動にはまったく関わらないで 終わったのは意外であった。

 革命運動の思想的な側面については、多数の登場人物の口を借りて、 非常に多様な考察が述べられていると思う。政治や人間性に 対する洞察の深さにはもちろん驚くべきものがある。ただ、現実の 政治的な駆け引きは、ピョートルたちはもとより、レムブケーらの ような立場の人ならばもっと高度に洗練されたものになっていそうな ものだと思われた。また、たとえば現代のアラブのテロリストは、 ピョートルたちよりも道徳的にずっと同情すべき立場にあると言える だろう。

 ピョートルたちの運動の標的になる旧体制をある意味で象徴して いるのは、世間知らずなスチェパン氏の情けなさであろうが、 個人的には、スチェパン氏の姿には、自分の姿を鏡に映してみる ような気にさせるところがあり、ついつい感情移入してしまった。 スチェパン氏とそのまわりの人々の描写量はこの小説の中でも かなりの割合を占めており、作者も彼らを単なる狂言回し以上に 考えていたのだと思う。もっといえば、少しは愛着さえ持っていたの ではないだろうか。

 それにしても、ドストエーフスキイが彼の死後のロシアがたどった 歴史を知ったらどんな感想を述べるのだろうか。おそらく彼は おおむね思った通りといって、あまり驚かないのではないかと思う。


(C) Kenta Nakai