明治学院バッハ・アカデミー

J.S.バッハ 「ヨハネ受難曲」

2001年3月30日 明治学院白金チャペル

 職場の近所にある明治学院大学で、高名なバッハ研究者の樋口隆一氏が教授 をしておられ、昨年から明治学院バッハ・アカデミーと名付けた年6回の演奏 会を始められたことを、たまたま新聞の折り込み広告で知り、早速今年から会 員になってみることにした。白金台といえば、プラチナ通りだの、シロガネー ゼだの、なんとなく実体以上に浮ついたイメージが流布しているようだが、歩 いていけるような近所で小規模だが質の高い催しがあるのは有り難いことであ る。もっともそれが本当にどこまでの「質」であるのか、今回が初めての経験 になるので、おっかなびっくり出かけてみたが、結論から先に言えば、十分楽 しめるものであった。

 今年は年間のテーマが「バッハからシェーンベルクへ」という、やや難しそ うなものになっているが、今回は受難節ということもあるのだろうか、オーソ ドックスな「ヨハネ受難曲」が取り上げられた。指揮は樋口隆一氏その人であ り、明治学院バッハ・アカデミー合唱団ならびに合奏団とある。合奏団の方は 私でも知っているような有名な演奏家の名前が入っているが、どちらも常設の プロ集団ではないような気がする。独唱者については後述するが、それなりの 人を集めている。会場は、学内のチャペルで、堅い木の椅子であり、ヨハネだ からよいものの、マタイ受難曲だったら、かなりつらかったかもしれない。実 は、以前ハイデルベルクの教会で、素人の演奏するヨハネ受難曲を聴いたこと があり、そのときも最後の方はお尻が痛くなったことが思い出された。2階も含 めると400人ぐらい入りそうな会場は、驚いたことにほぼ完全に満席であった。 比較的後ろの方の席に座ったが、音響的には問題なく、ソリストの一部がよく 見えなかったことを除けば満足のいくものであった。

 いつもは最初に樋口先生の短い解説が入るそうだが、今回は大曲なので、い きなり演奏が始まった。その演奏であるが、実は出だしは最悪であった。まず、 合奏が始まるが、音程は狂っているし、ばらばらだしで、顔をしかめていると、 合唱が始まり、これなら合奏の方がましだと思ってしまった。特に高音部がす っぽり抜け落ちているような感じで、本当にひどいものであった。しかし、曲 が進むにつれて、徐々に印象が上向いていった。何よりも福音史家の大原博氏 が素晴らしいことに気がついた。これまでレチタティーヴォに音楽性をあまり 感じたことはなかったが、氏は比較的ゆっくりしたテンポで深々と歌い上げて いて、イエス役の小原浄二氏との打てば響くような掛け合いの場面なども、文 字通りの悲劇であっても、「音楽する喜び」といった風情が伝わってきた。する と、合唱と合奏の調子も徐々にあがってきて、演奏が俄然盛り上がってきた。 ソプラノの山本美樹氏も、最後のアリアなど、もう少し悲しみに濡れた表現で あってもよいような気がしたが、美しい声で聴きほれた。美しい声といえば、 アルトの小原伸枝氏の声は深みのある非常に魅力的なもので、こんなにすてき なアルトは外国の団体でもあまり聴けないものだった。ただ、こちらも最後の 方のアリアで、一瞬復活を思って、曲調が輝かしくなる場面では、力強さをだ しきれていないようだった。ピラト役とバス・ソロの浦野智行氏は、バッハ・ コレギウム・ジャパンの公演でもお馴染の人であり、力強く安定感のある歌唱 であったが、ややクール過ぎる気もした。残念ながら、テノールの川瀬幹比虎 氏は、力強さと安定感がなく、まったくのミスキャストと思えた(もっとも最 後のアリオーソは結構良かった)。合唱陣も最初は声がでていなかったが、力強 くドラマチックな表現は得意らしく、クライマックスの審問場面での盛り上が りは相当なものであり、しかも多声的な表現も美しかった。合奏のソロでは、 ヴィオラ・ダ・モーレを弾いていたコンサートミストレスの川原千真氏の演奏 がちょっと荒れ気味のように思えたが、前田りり子氏のフラウト・トラヴェル ソは心に沁みるようだったし、あまり目立つ場面はないもののチェンバロの渡 辺順生氏も要所要所で曲を盛り上げていたと思う。樋口氏の指揮は、比較的遅 めのテンポで、曲の区切りもきちんととるが、必要な場面では十分な迫力を備 えていた。ヨハネ受難曲については、昨年、近頃とみに声価の高いヘレヴェッ ヘの演奏を聴いたが、正直言って、私の趣味とは少し違う方向を志向しており、 心から感動することはできなかったのだが、今回の演奏はより伝統的なものな のか、私にはより感動的に聞こえた。

 ヨハネ受難曲では、私はかねがね最後のコラールが余分なように思えていた (実際、バッハはこの曲を稿によって、付け足したり削ったりしているらしい)。 しかし、今回の演奏では、それが必ずしも蛇足のようには聞こえず、最後に清 澄な救いを与えているように思えたのが収穫で、特に曲の終わりで思い切って テンポを落として、暖かみのある歌い終え方をしたところが心に残った。


(C) Kenta Nakai